2020.01.16

伝統の技と和のある街並みを遺したい

【 鬼板師/工房「鬼義」 塚越久義さん】

1400年の歴史の担い手

寺社仏閣や日本家屋の屋根の上で、睨みを利かす鬼瓦。

古く飛鳥時代に仏教と共に伝来し、その恐ろしい表情と存在感で邪鬼や厄を払い、家内安全と子孫繁栄をもたらすと伝えられてきた伝統の守り神だ。

その鬼瓦を作る職人・鬼板師おにいたしとして活躍する、塚越久義さんを訪ねた。

平日の昼下がり、塚越さんの工房「鬼義」の辺りは、ひっそりとしていた。

深谷生まれ深谷育ちの塚越さんと鬼瓦との出会いは、塚越さんが中学生の頃だった。

「中学の時に通っていた塾が『深谷瓦商工業協同組合』の事務所の2階に入っていて、塾に行く度に見ていたので、鬼瓦は自分にとっては身近な存在でした。最初は鬼の凄みのある表情に目を奪われて。この迫力が人の手で生み出せるなんて本当に凄い。いつか自分も作ってみたい。そう思っていました」

地元の高校を卒業後、一度は地元の電子関連工場に勤務したが、20歳を過ぎた頃から「人がやっていない仕事がしたい」と別の道を模索するようになる。

そんな時、背中を押すように埼玉県の「鬼瓦技術継承者育成事業」が始まり、働きながら月2回の講座に通った。しかし、それでは足りず、家に瓦を持ち帰って作り続け、24歳の時に仕事を辞めて埼玉県小川町の鬼板師・富岡昭、富岡唯史さんの元に弟子入り。鬼板師の道を歩み始めた。

「師匠からは、『給料はあげられないから弟子は取らない』と言われましたが、それを承知で勝手に通いました。4年間の修行期間があったんですけど、その間ずっと無給なので、週6日、ガソリンスタンドでアルバイトをして何とか生計を立てていました。朝7時半に起きて師匠の工房に行って17時までひたすら作って。18~24時までバイトして家に帰って2時半に寝て、起きて、また工房へという生活でしたね。うちの師匠は、聞けば教えてくれましたが、工房内で集中して鬼瓦に向かっている姿からは職人独特の緊張感が漂っていて気軽に話しかけられない雰囲気だったのと、職人は『技は見て学ぶ』と思っていたので、工房での会話は『おはようございます』と『お先に失礼します』の二言だけの日も多々ありました。技は直接聞くのではなく、師匠が昼休憩を取っている間に乾燥を防ぐために覆っているビニールと新聞紙に包まれた師匠の作品をこっそり写真に撮って、自分が作った鬼瓦とどこが違うのか、どうすればもっと良くなるのかを考える日々でした。その頃が肉体的にも精神的にも一番辛かったです」

「それでも、作っているとどんどん上達するから楽しくて。とにかく作るのが好きで、日ごとにこの世界に引き込まれて行きました」

「継業」の厳しさ

塚越さんが修行を終え、故郷の深谷に工房を構えて独立した頃、既に瓦産業の衰退は目に見えるものとなっていた。

瓦の需要は減少の一途を辿り、埼玉県の瓦組合は解散。深谷市周辺市町の瓦組合も後を追うように解散し始めていた。

「修行を始めた当初から、『先が見えない、仕事にはならない』と周りからもうちの師匠からもはっきり言われていました。でも師匠には跡継ぎがいなくて、関東で鬼瓦作りの伝統の技を継承できるのは自分しかいない。県の育成事業に一緒に参加していた人たちや兄弟弟子たちが、家庭とか仕事とか色々な理由で次々とこの道を諦めて行くのを横目で見ながら、そんな中だからこそ自分が何とかしたいという気持ちがありました」

しかし、産業の衰退は止まらず、深谷市周辺の歴史ある瓦屋も次々に経営難に陥り、廃業するか瓦工事屋へと業態を変えるかの選択を迫られた。全盛期の深谷市内に160軒あった瓦屋は今、1軒にまで数を減らしている。

「奈良県とか京都府みたいに世界遺産とか国宝がある地域や、定期的に建て替えがある文化財がある地域は、まとまった瓦の需要があるのでまだいいんです。でも、関東周辺にはそういう建物はないし、一般家庭でもいぶし瓦を乗せている家もなくてまず需要がない。長い歴史がある瓦屋も無くなっていく中で、関東で個人で鬼板師を続けて行くのはかなり厳しいです」

現在、関東周辺で活躍する同じ流派の鬼板師は、最年少の塚越さんを含めて7名。しかし、かつて塚越さんの師匠が習った静岡県にある親方の工房も、大掛かりな、屋根に乗せる鬼瓦を作る仕事はもう受けない方針だと、塚越さんは兄弟弟子から聞いている。それに伴い2名がこの道を離れ、残るのは塚越さんとその師匠を含めた5名のみになろうとしている。

「需要がない中で伝統の技を絶やさないようにするために、今は鬼の顔を入れた表札や置物とか、鬼瓦作りの技術を生かした小物を多く作っています。埼玉県伝統工芸士の資格を得たので、今後は、小学校やデイケアセンターでワークショップをしたり、体験教室などを開きたいと考えています。でも、本来は屋根に乗せる鬼瓦を作るのが鬼板師なんで、関東における鬼板師の役割を考える日々です」

鬼瓦の原料になるのは、加工に適した上質な粘土質の土だ。

利根川がもたらす豊かな土壌に恵まれた深谷市は、江戸時代から戦後の復興期に至るまで「瓦の街」と呼ばれる程の瓦生産量を誇った。

しかし、その土は大量の瓦やいぶし瓦の需要に応え続ける中で掘り尽くされ、最後に採れたのは今から数年間。
塚越さんも、今は師匠の伝手を辿って愛知県の土を取り寄せて作っている。

本当は深谷の土で作りたい。
でも、もう採れないのだからどうしようもない。

塚越さんは厳しい表情で語る。

歴史を繋ぐために

深谷はかつて、江戸と京都を結ぶ中山道随一の宿場町として栄えた地域だ。

しかし、その歴史ある街並みも、後世に遺そうとする人がいなければ、時の流れに抗えず面影さえ無くしてしまう。

「中山道も、昔は『深谷瓦』を使った商店や民家が立ち並ぶ和の街並みが続いていて、お祭りがあると人波をかき分けないと歩けないくらい活気があったのに、今はすっかり寂れてしまって。新しく建てる建物には誰もいぶし瓦を使おうとしないし、歴史ある風景もバラバラになりつつあります」

深谷市内でさえ瓦が使われなくなった背景には、時代の流れだけでなく、瓦への誤解もある。

「『瓦は地震に弱いし、重いだけ』とよく言われますけど、瓦屋根の重さに耐えられる建物を作るには、基礎となる土台と骨組みがしっかりしていないといけないんです。今、ハウスメーカーが使う柱や土台はみんな細く軽くなってしまっていて、瓦屋根を支えられるような強度が無い。だからお客さんに瓦を勧めることができない。瓦屋根を作るためには、一般的な屋根を作るよりお金が掛かります。でも建ててから15年もすれば、素材にもよりますが屋根の裏のゴム材は駄目になる。その時に真価を発揮するのはいぶし瓦だよということを、もっと広く多くの人に伝えたいし、知って欲しい」

「日本全国の瓦の産地には瓦博物館とかミュージアムとかがあって、瓦の魅力を伝える場所も機会もあるのに、深谷にはまだそれがないんです。だから、いつか自分が深谷に、瓦の良さを建物の構造から伝え、鬼瓦の伝統の技を映像や資料を通して知ることができるような瓦資料館を造りたい。その側に自分の工房も構えて、そこで鬼瓦教室を開いて。若い頃の自分のように、深谷で新しいことにチャレンジしたい人を応援できる施設も建てて。瓦資料館を中心に、江戸時代の中山道のような、瓦屋根の建物が続く街並みを造りたいと思っています」

「これから先、自分は神社仏閣の鬼瓦が作れなかったとしても、鬼瓦の伝統の技と和のある街並みだけは何とか遺したいです」

鬼瓦の、思わず後退りしてしまう程の凄みを生み出すのは、鬼板師が約2か月の製作期間を掛けて鬼に刻み込む魂だ。

伝統産業が途絶える時、私たちが失うのは、歴史の美しさを纏う工芸品だけではない。

目には見えないものに対する畏怖の念。
師匠から弟子へ脈々と受け継がれて来た伝統の技。
歴史が息づく和の街並み。

「自分と同じ気持ちで鬼瓦に向かえる人が現れない限り、弟子は取らない」

そう語る塚越さんは、鬼に魂を宿す伝統の技を後世に遺すため、今日も静かに土に向かう。

(文:髙田裕美/写真:矢野航)

<鬼義>
住 所:〒366-0825 埼玉県深谷市深谷町9-12 (七ツ梅酒造跡内)
お問合せ:050-5235-0575/onigawara@oniyoshi.com
営業時間:9:00 ~ 17:30
定休日:土・日・祝
HP:https://www.oniyoshi.com/

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